昭和45年6月19日 - 朝の御理解
 【入力者: 末永 満】
御理解第37節

 生きておる間は修行じゃね。たくましいまでの生命力と申しますかか。信心にはそれがなかなければならない。どんなものでもこなしていくという、どんなものでも自分がお徳を受けていくために信心も進めていくことのためたならばね、見てやろう聞いてやろう。食べねばおかんといったようなものですね。

 そのどのようなものの中でも自分が生きていく、大きくなっていく繁盛していくことのための、根肥やしにしていかずにはやまんというほどしです。そういう、生命力が段々ついてこなければ、ここんところの一生が修行中ならば、聞いただけでへこたれますよね。

 ほー、一生も修行せにゃんじゃろうかと思うんです、金光様の信心すりゃ。先日もここんところ頂いたんですね。「丁度学者がめがねをかけて本を読むようなものであろうぞい」ということのです、それはもう読まずにおられない、楽しい、勉強が身に付いている、学徳が身に付いていくことが楽しみ。読まずにおられないもの。そういうようなものがです、えー、信心なら当然そうなっていかなければだめです。もしそういう勢いというようなものがなくなっていったらね、もうあなたの信心もうそれだけなんです。押しかけとくやれやれで。

 だからなら、生命力を失った、例えば植物といったようなものがですね、もう根から吸収することを止めたら、止めることになったら、だからおかげはそのままね腰掛てしまや、丁度そこまででその、停止しなきゃならんようにけれどね、それから(※スイビを留める)ほかにないです。

 枯れていかにゃいくよりほかに仕方がない。信心に修行はつきもの。その修行におかげが伴なう。その修行に力、いわゆる、お徳がついてくるもの。信心におかげはつきものといったようなもし考え方が出来きてきたら、もう大変危ない。信心が少し出来てきてくるようになりましてですね、信心を腰掛けますとですね、もう修行ぬきにしてから、おあげだけを求めるとういふうならです、不思議なことです。信心の初心の時にはそうです。それは、もちろん修行が分かりませんからおかげをおかげと見てくるのはあたりまえなことですね。

 難儀な問題が起きてくる、その難儀な問題が、を楽にしてもらおう、おかげにしてもらおうというて参って来るから、まぁ仕方がないけれど。一通りのことが分かっておかげを頂きますとね、そのおかげをですね、修行せずどんどん大きくしていこうというような考え方をするようになります。成る程、大きくなるかも知りませんけども、それから先はこんな大きくなるとじゃないです。危ない、危ない。根から吸収することをしないで、例えば、枝葉がしこっていってごらんなさい。さー大風どん通ったら必ず倒れましょうが。

 私はここへんのところを、えー、今朝感じることがあるんです。確かにですねそういうところがありますよ。信心が段々高尚になるというのは成る程おかげが受けてくる。そうするとですね、(修行の方をいた、いとんでおります)。いわゆる、根からの吸収(?)ね。そういうそのが生命力といったようなものが乏しくなってくる。

 そういう例は沢山あります。ですから皆さんだってそういう例えばなら修行せんでもどんどんおかげを頂かして頂けれるほうに、ようにならなきゃならんけども、そういう時に気付かなきゃならないことはない。これは大変だぞと、今、現在の修行精神が枯れてしまよる、少なくなってしまいよるという、おかげの方だけこうやって繁盛していきよるが、これは危ないぞと、気付けて頂きたいと思うことです。

 だからそういうとこ、ことなってまいりますとですね、やはり神様は折角ここまでおかげを下さったのだから、それをなら風でも吹いたら吹き倒れることはあっちゃならんからです。いうならお気付けが、お気付けと申しましょうかね、そのうつろな、いわば、繁盛のことをですね。

 さー、これに信心を積めていけよ、修行しっかりしていけよという言わんばかりにその流して下さる、信心修行流して下さる。それを間違いがない。けども、それでも気が付かない。私皆さんに申します、なら例えば最近あの自動車もたいしたことでないと思っておりますが、段々細かい会社くらいから小型の自動車ね。中ほどぐらいの使ってから、また、大型の車を買うていくといわゆる段々大きくなっていきます。

 時にはね私は必ず申しますが、大きな車にこんな乗れるようになったら徳が出来たけんじゃないよ(?)。大きな車に乗らせにゃ、乗らせて頂けるなら、その大きな車に乗せて頂けるだけの修行それに背負うていかないかんよって。私はそういう意味のことを必ず申します。

 信心が出来て、出来ん迷うとるじゃない。だからこれは自動車だけのことじゃありません。でないとねそのおかげがく、うつろなものになってくる。だからね、そこんところを一つ、いかに生きておる間は修行中じゃと仰る、その修行のね、いわゆる、根本的なものと申しましょうかね。

 それはちょうど(大地に根を下ろした)植物のようなもの。例えば、楠の木なら楠の木をという木は沢山大きくなっていきます木ですよね。葉がしこっていきゃしこっていくだけ、枝が栄えて栄えていくだけ、根の方もずっとそれだけ広がっていかないかん。

 それはもうたくましいまでに全てをその根肥やしにして、そのそれを枝にはんや送らにゃおかんといったような働き。何十年も前でしたが私はまだ(?)でお仕事させて頂いている時に、大関ですかね、(?)。あの大きな楠の木がね七、八本もあるというところがあったです。もう大きな楠の木です。それがあるあの大風で一本が倒れました。私はちょうどその時、(?)ことがあります。
 (かんとうがたおれぬ、この時がどうしたことじゃろうかち言いちから、言っとるですね)。その家がね、ちょっこんといいますか。そのちょっこんは下さえずっと降りて、横へこうはっていくんですけども。そのちょっこんがですね、下に大きな岩盤があったですね、岩が。だからそのちょっこんが入らずに横さんこうなってしまった。それが(?)ことがありますが、はぁー、成る程信心も(?)じゃと、おかげを頂きたい、ほんとに頂きたい。大きな(?)頂きたい。ならねその根であるところのちょっこんがですね、もうどこかでも下の方へ入っていくほどしの信心が出けなければこれは危ないなと、おかげだけを頂いたんじゃ。

 段々信心をさせて頂いて一つのおかげを頂いてまいります。(?)やれやれと思うでしょうね。それはやっぱり願いが小さいからでしょう。一千万なら一千万財産を作ったらもうそれでやかごとと思ったでしょうね、人間ちゅうのはだいたい。

 ですから一千万出来たらもう、もうそれが段々こおでいくね、根がついていく。このままさえなっていきゃもう段々繁盛するばかりだと、思うて信心のこの修行をぴしゃっとやめてしまう。御恩は忘れません、だからお参りいたします。けどもその修行のお参りはせん。参りよる時参りよるちいうごたる。御月次祭だけはお参りしおりますというくらいなってくるです。

 ほんというたらおかげを頂いたんじゃもうそれこそ有り難うて、有り難うて御礼の参拝、いうなら御礼の修行出来なければならん。それが出来んようになるのがへてして人間なんです。ちょっこんはそういう何かに災いされる。そしてそれからはもう下へ入らずに、横の方へ(?)入っていくだけなんです。

 だから、さー、(大風が吹いけれど、倒れてしまった。おしいいね。ですからやはり願いというものはもうここまでという限りはあってはならない。私共は本気でそれをいつも思うております。それに甘んじるという時にあり、それでねそこまでで止まってだけではすめばばってんそれから(?)枯れていく、こうなって。
 
(?)、あー、合楽は大したことですな、なんていうて、そのご主人でも言うて下さる時があります。けども一つも大したことも思わん私は。まーだまーだと、もうその変わりに修行も心も(?)させてはならんと思うとります。

 この間私は皆さんに言うておることね、今までは何と言うたってまず自分がおかげを頂かねばならん、自分の助かりが大事、だから実感もないことをね、その誰であることを言うちゃった神様に通じん。

 自分が助かり、自分が一番苦しい、自分がおかげを頂きたいことを一生懸命願えというのは今日までの舞台立ったですね。それは私はその言い方は非常に批判されたことがあります。自分のことばっかり願うてといふうに、けれどもそれが一番実感なのだからね。

 けれども今年は違う。今年はそれこそ世界中のことを願わなきゃおられない。そういう自分が一つの助かりというものが出来たらです、もう自分が助かってからやれやれというたらおしまいです。

 もう自分がここに助かったら、その助かりがですこういうような助かりが世界中に広がっていったらどのような素晴らしいことになるだろうかと、思う。ほんとに世界中のすみずみのことはですね、もうほんとに思わなければおられない、祈らなければおらない。
 最近、今年になって親先生は人若返らしゃったち言ってから皆さんが言うて下さる。いわば元気が少し出てきたとこう言われる。若返りがなければおられないもん、世界中のこと願えおる。どいうようにです、まずその修行の精神というものはそれこそおいてますます魚になるであってね。ますます修行の心というものはおおせいになっていかなければならん。

 なっていかなければそれだけ枝葉がしこっていかにゃならん。ある程度しこったらまぁ、一千万くらい、一千万の財産が出来りゃ、までと思とったから、それまで一生懸命がんばった。それから修行の精神が無くなった。ならそれでも一千万あるけんで、それでずっと(?)ついていって増えていくだけ、成る程(?)、これは人間の考え。

 さー、それからそれこそ昨夜まででしたがねおかげを頂いた、ほんとに商売が大繁盛のおかげを頂いておるけれども、家庭的に難儀な問題がいちいち起きて、昨日話しておったところに皆さんがやってきてから、ほんとにねかねがにくいと久保山さんが言ったそうですよ。









 (?)聞きました。ほんとに自分のその(?)金がなかったらこういうことになる前になのにというわけなんです。おかげを頂いた、けどもそういうことから飯は生まれてくる、財産が。いわゆる、うつろなものである。うつろといったらただうつろけれどもね。それこそ難儀なことになってくるわけです。

 どうでも一つお互いがね、生きておる間は修行中じゃと、それは学者が歳をとってもめがねをかけてでも本を読むようなものであろうといわれるほどしのです、たくましさというものをね一つしこう頂きたい、信心によって。

 そういうたくましさがです、それこそちょっこんが下に入れば入るほど横に入っていくいわば根も同じこと。そしてますます繁盛ということにになってくる。私この、ここのウワキがみごとなっておるのにもうおどるばっかりですね。天地の恵みを受けていわばあの、植木のが大きくなろうとするもうとにかく横のものは落とし倒しからでも大きくなろうというような生命力な、ほんとに頭が下がる。

 第一この脇殿の前に植木植わっとりますね、中に一つ大きく丸いのがあそこにありましょう、正面のとろこ。私はあれを見ながら思うんですね、もうとにかく一葉が出たら一葉だけ回りが大きくなっていくことなんですよ。二葉が出たらね、なら一葉に一寸あるなら二葉出ると二寸だけは回りが大きくなって、おるということですよ。

 だからその根と葉と枝がです、相まってそのように繁盛していくこともまた楽しいじゃないですか。止むに止まれん多いになる修行精神をもってです、その修行精神には絶対おかげが伴うのだお徳が伴うのだ。そこで修行しよってもそのおかげが伴わんということころにいろいろ深く反省したり、これはまだ信心が足りんのじゃという一つ勢いを持たなければならんですね。








 もう絶対人の悪口ね、大きくなっていかにゃいかん。今朝は私はご神前を下がらせて頂く時にあの頂いたのがねあの夕べのお供え、そしてあの(?)あのお神酒が沢山お供えになっております。両端に三本入りのお供えが両方あっとりますね。これは最近目立っとるんですね、毎月月例祭の度に三本入りのお供えがずっと来る。

 今まではまぁ二本入りぐらいね(?)。しかも最高の酒がですよ、しかもそれが三本入り、広がってきた。これはお三方買いならんごと広い。これだけはおがけを受けてきたことはね椛目時代からお神酒のお供えのなかったということはまずございませんでした。一番始めの頃はねあの、(どうぐおくやらが)お供えに頂きよりました。もう絶対お神酒だけはもうほんとお神酒のお供えのなかったことはございませんしたでしょうね椛目時代は。

 それが段々焼酎のようなもんになって、それから二級酒がたいへん段々集まってきた。もう最近に級酒(ちく)のはもういよいよめずらしくて、もうこれは二級酒はとっておきなさいち言うてからとっとくとなった、ほんとですよ。二級酒中入らん時がありますけんね。あーそれは飲んじゃいかんよ。それは取っときなさいちいうぐらい。ね。

 最近ではもうほんとに最高の特級であり、極上でございというものが集まってくる。昨年、私裏下がってからお茶頂いとった、だからここにあの壱岐から日本一の焼酎を頂いとるけん、誰でもち。ときかく、日本一と聞いただけもう何でんいいけん食べたり飲んだりするち思わにゃできん、もう私はいらんち、それではできん、これは日本一の酒だけん飲みなさいち私が誰でも押さえつけるように飲ませたんです。

 私はもう不思議に日本一とか世界一とかということが好きでですね、もうどういうものでもそれが日本一であるというなら見てもやろう、食べてもみろうと、という気持ちがある。もうあの特にあのかいがるいですね、いわゆる、絵何かこれは世界一の絵描きというたらもうそれこそ福岡まででも行って私は皆にお願いしてから見に行きます。成る程世界一は世界一だけのものがあります。

 そういうその私はたくましいそのいうならば吸収力というものはね、ここにもっておるです。だから私はどーこんも行こうとも、どこしようとも思わんけれどね、何か日本一ごたると来た時だけちょっとちょっと連れて行ってくれんのというて皆頼んどります。なんでもそれは。だからこの焼酎は壱岐からといい、もう壱岐ということろにはね日本一もない、ただあるだけ焼酎だけ、あるだけからその山の神様ちいう、山の神という焼酎。いやー、山の神じゃないあれは、まの、ま、山の杜ちいう。山の神ちいうたらちょっとですね、(?)。

 やっぱり日本一は日本一、成る程ここへんが日本一じゃろうというところがある。昨日はあの世界一酒まで最後まで飲ませた、お月次祭が済んでから。日本が五万二千円する、一グラスが七千円だそうです。文男先生がそれを聞いてきた。ほー、これは何か七千がつあるばい。ね。ナポレオンという洋醜です、ブランデ、しかもその百年もの。

 まぁ昨日は、わざわざその(?)なかったけれどもその焼酎からそれから世界で二番か三番ぐらいなおウィスキーがあったからそしてそれを頂いた。出、最後にその世界一というその洋醜を頂いた。出、がぶがぶ飲んだわけじゃありませんけどね。まぁ、少し弱ったですけれど。ね。

 といようにです、例えばお供え一つの中にもそういう一つの繁盛が見えられる。今朝私は頂きますあの、ぎょやくのお供えしてあれはなだしですね。あの三本入りのあのお供えとこ頂いてからほんとにね、例えばそういう例えがないたくましい吸収力、たくましい修行精神ね。その修行には絶対力がついてくる、または、おかげが伴うてくる、しかも出来てくれば一回りづつ大きくなっていく。お供えが最近どうもそういうふうな感じ、いわゆる、大型時代といわれるがどうもお供えも大型時代に変わっていきよるような感じですね、合楽の場合。

 そんならやはり大型時代の信心を大型の信心をしなきゃできんじゃないですか。もうこれでよかよかぐらいなことではいかん。そのためにはです、修行の楽しさ修行の有り難さ、いわゆる、学者が歳をとっても本を読むようなものであろうぞと、仰せられるようにね、その読まなければおられない、新しい知識が増えていくということがです、もう楽しいでたまらん。今まで知らなかった世界、今まで知らなかった徳の世界というものがです、段々自分の心の中にです、それがちょっこんとして信心の修行がこう目に入っていく。

 それに従うて、それに伴うて、いわゆる、前の植木じゃないけれども人が出りゃ、一だけ一回り大きくなっていく。二が出りゃ、二だけ回り、回りが大きくなっていく。そういう楽しさもある。修行だけが楽しかってから、それに徳をつかなければ、おかげも頂かれんちいうならそれはもうほんとの修行じゃなかです、修行好きです。下手の横好きがありますよね。いっちょん上達はせんばってん、やっぱ横好きですけんで、そこに弾ませっしゃる人がある。

 信心でもそうです、修行好きという。とんでも、水かかったり断食したり一生水かかったり、断食したりした人がおる。たいして枝葉がこう栄えていきよるふうで(?)人がある。これじゃいけんです。ほんとに一回り大きくなっていくというおかげ。もしそこに停止したならやはり自分の修行の内容というものを改めて見るという反省させて頂きながらです、一生が修行であると、一生もう手足の動く限りです、修行の精神。もし手足が動かんごつなったっちゃ心で出せて頂く修行という修行の心というものをね、たくましいまでに育っていかなければいけない。

 とりわけ、私は折角修行させて頂くならそういう楽しみがある、有り難い、しかもそれにはです、それこそ見てからでも楽しい、聞いてからでも楽しい。もう誰が見ても分かるように一回り大きくなっていくという形に現れてくるおかげもそれにも伴うようなおかげ。そういう信心修行をですさせて頂かなければならない。そんならね、それこそ一日までも。

 修行が出来るということ、おゆる、修行をさせて頂くということが有り難いということに人間にはやっぱり(?)伴うたりますからね。それはやっぱ行動のよくですけれども。千人助かりよるからやはり一万人助かるおかげを頂いた方が、例えば取り次ぎ者としては有り難いようにです。皆さんでもそうです。一万円溜まりよるから一千万円の方がいいでしょうが。

 だからそこにですね、もうこれこれといったような小さい願いというものじゃなくてね、限りなくおかげの頂けていけれる修行、限りなくおかげの頂けていけれる信心。そういうおかげを頂いて頂きたいと思います。「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど学者が歳をとってもめがねをかけても本を読むようなものであろうぞいと、いうことのためにはたくましいまでのいわば修行。

 人間に苦労はつきもの。だからその苦労が一生が修行というな思い方もしたら大間違い。こちから求めてでもさせてもらうたくましい、もう何からでも見てやろう聞いてやろう。何からでも、どういう問題からでも、ただではおかん。それを自分の信心の力にせにゃ、徳にせねばおかんというそういうたくましい修行精神を鍛わして頂く、作らせて頂くところからですおかげもまた限りなくそれに伴うて進展していくだろう。

 そういうおかげを頂き、そういう信心をです、自分の信心内容として修行内容としていきたいと思うのでございます。どうぞ。

 皆さんの信心のに内容の中にね、たくましさというものがあるがないか。考えてみて下さいね。おかげを受けたらやれやれ、少し例えば大きくなったらその大きくなっただけの信心修行が出来ておるか。もし出来ていないならに、おかげを頂きよるとするならこれは危ないとまず気付かせてもらう。そこからいよいよそん中に適当につめられる信心修行を(?)。どうぞ。